寝る前マガジン

1日の寝る前か暇な時に書いている文章を公開しています。1日1記事。

食欲ミッドナイト-2023/3/1の文章


深夜になると無性にお腹が空くことがある。晩御飯を食べてから6時間ほど経ったあたりからが多い。

確かに、通常の朝食昼食夕食のサイクルを考えるとそのあたりでお腹が空くようになるのはわかる。

わかるんだけど、さすがにお前それはエネルギーを欲しすぎだろ。と思ってしまう。

基本的に夜ご飯を食べてから何か激しい行動をすることはない。なんなら風呂も基本ご飯の前に済ませてしまう派なので食べ終わったら洗い物をするのと洗濯を2日に1回するのだけしてしまえばあとの時間は基本的に自由時間として残されている。

その自由時間も何か筋トレや運動、ダイエットトレーニング的なことをするでもなく基本はソファに座ってひたすらスマホを触っている。そこではほとんど運動らしい運動なんてものはしない。それが物理の計算の世界ならその時の私がしている仕事の量は実質0として扱われるようなものであろうと言える。

にも関わらずお腹は減る。減ってしまう。

別に深夜にご飯を食べる習慣があるわけでもないのに。

別段晩御飯から加えてエネルギーを求める必然性がそこに存在しているわけでもないのに。

ただ、時間の経過のみによってその空腹は訪れる。

馬鹿か。決まった周期でしか動けないのか。
そんなものは算数の問題に出てくる登場人物だけで良いんだ。

私は、いや私たちは人間だ。
この世を生きる人間であり時には確固たる自分を持って行動し時には自分というものを曲げて行動する、臨機応変な態度をとりながら生きている人間なのだ。

そんな人間の持つシステム、しかもエネルギー補給を目的とした行為を誘引するシステムであるところの食欲がそのように決まった時間周期で働くだけの無思考的な産業ロボットのような動作しかしないのはいかがなものか。

もっと臨機応変に対応すべきだろ。

「あ、今日は量は食べてたけど野菜とか豆腐とかヘルシーなもの中心だからちょっとお腹空かそうかな」
とか
「今日は普通だったけどカロリー高いもの多いし深夜に新しく何か食べさせるのはやめようか」
みたいな判断はできないんだろうか。

食欲も結局胃の状態によって左右されるということを考えると、むしろ最も反応元である胃から物理的に近しい距離でフィードバックを受け取る概念なのだから、なんなら思考を介すものよりも圧倒的に楽に制御できるはずなんだ。おそらく。

しかし現実はそうもいかない。

これを書いている今この瞬間も食欲は私に訴えかけてきている。

「何か食え」と。

これに乗って食べ物を食べたところで翌朝胃もたれで最悪の気分で起きる羽目になることを考えると……やはり食欲は、ろくでもないシステムだというのはもうお分かりいただけただろう。

みなさんも自分の食欲、意識してみては?

人間は移動する足である-2023/2/28の文章


どれだけ化学が発展しても、社会が便利になってきても人間が生きていく上で昔からほとんど変わっていない動作がある。

それは歩き・走りなどの移動の動作だ。

現代社会は過去の先史時代や石器時代と比べてはるかに発展している。その頃を生きる生き物には一切想像もできなかったような世界が今現実に広がっている。

しかしそんな世界で人は昔と変わらず歩いている。そこに別段の進化が見られることもなく。動作が時間の経過により失われた技術と化すこともなく。

ただ大きく異なることといえば交通機関や移動手段の増加だろうか。

バスや電車、新幹線に飛行機等の公共交通機関の発達、自転車や車等の足の拡張器官ともいえる移動手段の登場である。

こうしたものが存在している以上、人の移動に関するカテゴリーは変化しているのじゃないか?という意見が出てくると思う。確かにそう思えるかもしれない。

これに関しては、半分正しくて半分違うと言える。少なくとも僕は。

確かにそういった手段の変化は見かけ上も実態上も歩くという動作からは大きく変化しているように見える。しかし本質は変わっていない。歩くという動作を他のものにエネルギーを介して押し付けているに過ぎない。人が移動の際に行なっている主な動作の意味は、大筋では何も変わっていない。結局のところ移動の本質は変わらない。人はエネルギーを用いて自分という物体を動かす仕事をしているに他ならない。

移動することは生活と切っても切り離せない。

それは家の中の移動や通勤・通学といった小規模なものから国内・海外への旅行といった大規模なものまで存在している。

移動無しで生きていくことはできない。
移動無しで生きている人というのは結局のところ他人に依存して生きている。他人を自らの足としているのである。

もちろん人間以外の生命も移動無しで生きていくことはなかなか難しい。いや、生きていくことはできたとしても種の繁栄を考えるとやはりなんらかの移動がそこに伴う。

生命の本質は移動にあるのかもしれない。人間も、動物も、生まれた後ある程度成長すると誰に教えられたでもないのに移動法を覚え、自発的に習得し移動できるようになる。移動行為そのものがまるで生命にプログラミングされているかのように。

人間には移動するための足がついている。

いや、移動こそが本質なのだとすると人間の本質も足にあると言えるだろう。

人間は移動する足なのである。


以上のことをバイト中に暇だったので考えていました。

 

いつからが休日でどこからが休みなの-2023/2/27の文章

 こんにちは。今日は6日ぶりになんもない日が来たので寝ていました。あとは軽く病院行ったり買い物行ったり。暇な主婦かて。寒いと行動する気なくなるから1行動あたりの重さがデカくなるよね。俺だけ?

 せっかく大学の後期の授業が終わって春休みに入ったって言うのにほとんどバイトばっかしててなんかこれ休みか?という気持ちになってきた。そもそも大学の授業期間中も土日がバイトで潰れていたから事実上休みらしい休みが固定であったことないかもしれない。全休の日とかでバイトを固定で入れない日とか作ればよかったかもな。来期から一切の全休無いけど。

 我らが京都大学農学部応用生命科学科は3回生に信じられないカリキュラムが組まれていて、月〜金の3〜5限が確定で学生実験で埋まっている上に1,2限も専門がかなりの割合で入っているので全休どころかそもそも空きコマが1,2個しか存在しない。マジでどうかしている。これのせいでろくにバイトができない。しかもそれぞれの実験で実験レポートの提出が求められるので家での時間や土日の時間もそれらで潰れるのがほとんど確定してる。そんなことある???

 こういうこと考えると本質的な休みって一体どこに存在しているんだろうと思う。大体の人は何もすることがない日でもその先にあることや現在しておいた方が良い(必須ではない)ことなどを意識したり考えたりしてしまうことが多いと思う。少なくとも翌日にバイトや大学や仕事がある人がその休日にそれらを意識することなく過ごすことはほぼ無いと言い切っていいと思う。肉体的には休めても精神的にちゃんと休んだ日があることがある人はそう多くはなさそう。

 そう考えた時、じゃあ世の中の人間はどうやって精神的なストレスを解消しているのかというと、結局のところは「逃避」な気がする。全力で現実から目を逸らして何かに没頭したり楽しんだり、そういう行為が精神の休養に使われてる。ただこれは本当に休みなんだろうか?精神力を回復し傷を癒してるのか?なんだか違う気がする、具体的にはどうこう言えないんだけれど。

 そういうものは結局誤魔化し誤魔化しでなんとなくやっていってるだけだと思っている。だからこそ人は強烈な精神的ダメージを食らった時簡単に崩壊するのだとも思っている。常に改修補強がされているのならそんなことにはなかなかならない。結局ヒビや綻びを見過ごす現場あるあるみたいなことをしてるからいざという時にポキッと折れてしまう。どうしようもない。現代でできる回復法はおためごかし的なものでしかない。おためごかし、獣ゆく細道で初めて知ったしそれ以降その言葉をなんらかの作品で見たことない。ちょっと昔のやつなら出てくるのかな。

 現代社会に生きる以上はそういった「精神的ストレスの根源」から自分を完全に切り離すことはできない。できたとして、それは社会から外れたということに等しいのだからその事実によるストレスもまた発生する。結局のところ精神はストレスを受け続けるしか無い。そういった状態なのを、恐らくみんな薄々勘付いていながらも見ないフリをして生きている。この事実もストレス源に過ぎないのだから。

 休日は大半の人に存在する。仕事や学業の無い日、という意味で。

 しかし私たちが本質的に休める日、本来の「休日」はどこにも存在しない。「休日」のイデアを見つめながら紛い物の休日を待ち望んで生きている。

直前期を振り返る-2023/2/26の文章

 

 こんにちは。昨日に引き続き受験ネタをいまだに引きずっている大学二回生として直前期のことを振り返りながら日記を書いていきたいと思います。自分の代以降の入試問題に対して変な問題が出たと難しくなったとこそういうレベルじゃなくてちゃんと議論をしている人を見ると受験というコンテンツの恐ろしさを感じますね。まあ受験ネタにして日記書いてるやつが何言ってるんだという話ではあるけども。とりあえず今年も二次試験何事もなく終わったようでなにより。トレンドに乗ってた東大物理の話見ると大変そうだなとは思った。僕は生物選択でしたが。

 ・2021年1~2月

 あけましておめでとうございます。元日に初詣に行ったら普通におみくじで凶を引いた記憶がある。受験の年に引いていいものではない。受験生の正月は元日までなので元日は特に勉強もすることなく過ごした。2日からはさすがにやるかと思って共通テスト対策を始めた。共通テスト対策といっても度重なる模試である程度出題形式になれてしまうと現文・古文・数学・化学・生物・英語はどうせ二次試験でも使うのでプラスで何か新しいことを勉強するというのは地理と化学の無機ぐらいしかなかったはず。ちなみに向きはどうせ二次試験で出ないことが多いので勉強しませんでした。二次試験では珍しく無機が出た。は?

 

 正直共通テストはたいして危惧していなかったので当日まで割と気楽に普通に二次の勉強もやりながらって感じだった。本番も特に緊張とかはなかったかな。生物が簡単すぎて逆に1ミスが重くなっちゃったのと数学で問題見逃しをしたこと以外は特に気にすることはなかった。ただ同じ教室で受験していた灘高生が試験前や試験間で、計算や論理だてなどの解く能力はその時点という位置づけにあると個人的には思っていた。すの、普通に品がなさすぎるし灘なのに共通テストでイキらないでほしかった。中もちろん試験では過去問と説き方が同じ問題も多く出てくるので小野得ることは重要もなくという感じで第一志望のボーダーラインくらいだったので普通にそのまま出願した。共通テストの割合低いしね。

 

 ここからが本当にしんどかった。共通テストが終わった以上残りするべき勉強は二次試験しかなくなって、残り1ヶ月ちょいでどこまで実力を上げられるかという状態。共通テストと大きく異なるのは問題の難しさと実力への実感のなさだった。共通テストは各種出版社等がセンターを基にした予想問題を多く作っていたので問題を解いて採点して実力チェックという手順ができた。二次試験はそうはいかない。

 

 二次試験の多く、特に数学化学生物等の理系科目の試験で求められるのは解き方を考える能力で、計算や論理立てなどの解く能力はその次点という位置づけにある。これのおかげで、解き方を類似問題等で知ってしまっている問題を解いたところでそれが実力になっているのかがわからない。もちろん試験では過去問と説き方が同じ問題も多く出てくるので覚えることは重要ではあるけれど、それだけで目標の点数に足りることはまれなので、結局問題を見て自分で解き方を作る必要がある。これが本当に難しかった。過去問をやっても一回やってしまえば大体の解き方は覚えてしまうので二回目以降はそれをなぞるだけになってしまい、解き方を考えることにはつながらない。初見で解ける過去問も多くはない。自分の知識漏れや考え不足な点が多く見つかる。根拠と実態を持った不安が自分自身を襲うようになった。

 

 もともとあって受かるかわからないという漠然とした不安に加えて能力不足な点があるという事実を伴った不安が来るようになるとさすがにメンタル的にも厳しくなった。それに加えてずっと受験勉強を続けてきたことによる精神的・肉体的な疲労、直前期高校の授業がなくなり塾にこもりづめになったことによる閉塞感などかなりしんどかった。勉強中に厳しくなったときはひたすら「自分はできる」という自己暗示をかけていたけれど、寝る前特有の泣きたくなるような不安感はどうにもならなかった。そんな時にメンタル回復のために使っていたのはにじさんじの切り抜き動画だった。この頃ににじさんじを知った私はカプ厨だったこともあり塾での食事中や寝る前などにひたすらカプ系の切り抜きを見ていた。気に入ったカプに関してはピクシブで伏せ字のカプ名で検索して絵や小説も読んでいた。これがなければ完全にメンタルがやられていたと思う。

 

 しかしどれだけメンタルがやられていても勉強をしなければ受かるはずもないのでメンタルに傷を抱えながらもひたすら勉強をしていた。勉強によってメンタルが削られるのに、しかしその逃避先に勉強があったことは、なんだか矛盾しているように感じるけれど、実際そうだったので不思議な感じがある。切り抜きと同じレベルの大学を受ける友達と話してる時だけが心の癒しだった。別に違うレベルの大学受ける子でもいいんだけど「この大学の試験問題あるある」みたいな話もしたかったので仕方ない。

 ・入試日前後

 そんなこんなでぎりぎりで勉強しながら入試日前

日を迎えた。前乗りした方がよさそうだったのでホテルに泊まった。大学にも下見に行ったけど通ったことない学校の道って良くわからないよね。正直このタイミングで勉強してもしょうがないので気楽に過ごしながら体調を整えるなどした。にじバラとSSR組のポッピンキャンディフィーバーの歌ってみたを見たり聞いたりしていた。この歌みた、いいのでみんな聞いてほしい。

 

 入試一日目は国語と数学だった。国語はまあ語ることもないので割愛する。数学は結果としてはそれなりにできた。できたけれど最初の30分でできそうな問題をいったん片づけた後、1時間くらいほとんど進捗のないまま時間が過ぎていったのがしんどかった。あるあるだと思うけど、解き方がしっかりと思い浮かばずいったん解いてみても違うことがわかったりして解きなおすなどのことをひたすらしていた。最後の一時間で何個かとけてなかったらやばかったと思う。ちなみにその帰りで同じ高校の受験組で集まって当日数学答え合わせ大会をした。みんなが解けた問題解けてない問題を話して答えが同じかどうか言いあったりしていた。今思うと普通に頭おかしいしできてなかったか確実にメンタルやられるのでやらないほうがいい。

 

 入試二日目は理科と英語だった。これに関して受験中の記憶があまりない。化学でまさかの無機が出てきたことと生物で微妙に説明不足な問題が出てきたせいで問1の答えに確信を持てないまま大問最後まで解いた問題があったことは覚えてる。英語は前年までの良くわからない出題形式から和訳偏重になっていたので、かなり難しかったけどでも解いていて楽しかった。ちなみに英語は開示を見る感じ5割無かった。そうして受験が終わった。受験後、高校のみんなで帰り道を歩いている時、試験内容の話をしながらもなぜだかわからないけれど受かっている確信があったことは覚えている。そこまで余裕で解けているわけでもなければ正答率も高くなかったのだけれど。

 

 結果としては合格だった。合格発表が12時とかなのに7時に起きたせいで10時くらいにはもう緊張が抜けて、でもリラックスはできない絶妙に気持ち悪い気分だったことは覚えている。ちなみに鯖落ちのせいで自分のスマホじゃなくて兄のスマホで合格を知った。なんか決まりが悪い。

 

 以上で受験期の振り返り終わり。あとで思い出したことがあったら追記とかするかもだけど一旦はこれでいいかな~。久々にちゃんと思い出したのでそれなりに面白かった。みんなも自分の受験期まとめてみたらいいかも。意外と楽しいよ。

 

 それではまた明日。

受験期を振り返る-2023/2/25の文章

 

 こんにちは。長文になるかもしれないので久しぶりにパソコンで書いています。最近物を、っても直す行為をしていなかったので作業机の上が汚くて掃除をする羽目になりました。深夜3時に。テスト勉強してる学生かい。

 

 というわけで今日(昨日)が国公立大学の二次試験日なので久々に受験に関することでも書こうかな。ちなみに東大や京大の試験と同じく明日も受験に関することを書きます、おそらく。まあ過去回想なので勉強や意識について偉そうなことを言うつもりは全くないのでぜひみんな肩肘張らずに気楽に読んでみてください。ちなみに記憶と写真データからすべてを思い出して書くので普通に覚えてないことの方が多い可能性はある。2年前なんて大昔だから仕方がないね。

 

 ・2020年4~6月

 なんと写真を見返してみる限りでは全く勉強していませんでした。4時間かけて年賀状からわかった友人の家に一切の連絡なしで行き声をかけるでもなく写真を撮って帰ったり、クソデカホットケーキを焼いたり、TSUTAYAにひたすら通ってたりしてました。この時行ってたTSUTAYA、もう潰れていて無い。悲しいね。

 

 なんでこうなってるのかというとおそらく緊急事態宣言のせいで高校の授業もなく塾の授業もオンライン配信ばっかだったのでシンプルに勉強に対する危機感が全くなかったのとあとまあ言うて夏休み前だからそんなに頑張んなくてもいいだろって思ってた可能性がだいぶ高い。この時は全体的に危機感や焦りがないので受験に関しても難しいとは思っていてもメンタルを病むようなことは一切なかったと思う。ビバ楽観主義。

 

 ・2020年7~8月

 確か6月の下旬か中旬で緊急事態宣言が解除されたこともあって普通に高校も塾も対面授業が始まってある程度経っていたはず。あとかなりここら辺から受験生的な感じになってきている。共通テストの模試が何回かあったのと京大の夏オープンがあった関係で割と受験に関する意識や危機感みたいなのが芽生えてきてたのと、学校の授業ももう大した内容やらなくなってきて授業終わればすぐ塾行って自習開始みたいな感じだった。このころは基礎系を多くやってたのかな、多分。化学だけは新演習やってたかも。新演習、普通に参考書としてかなりいいのでもし高校化学を勉強する予定の人がいればやってください。

 

 ただこの頃も割と楽観主義的だったというか夏オープンとか現役生の出来がいいわけがないみたいな話は前々から聞いていたのでできていなくてもそこまで気にしていなかったし、共通テストもしも目標にはまだ多度いてないけど着実に伸びていたので全然悲観的には感じていなかったと思う。この頃の目下の悩みは受験よりも東京阪数学とかいう自分よりも数学のできる人間が多くいる中で毎回大学の過去問をベースとした授業を受けたのちに各自でやるこれまた過去問ベースの確認テストの出来だった。あれ普通に難しかったし多分今でも、というか受験当日でも自分には解けない問題かなりあったと思う。その確認テストの成績ランキングが毎回廊下に貼り出されなおかつその順位に応じて席順も変わるというむごいシステムだったのでそっちの方でメンタルがゴリゴリ削られてた。まあ楽しかったっちゃ楽しかったんだけど。

 

 あとこの頃確か塾のトイレでグラブルしてた。20分くらいトイレ埋めててごめん。エヴァ一番くじも引いてた。実家にアスカのフィギュアが3体くらいまだあるはず。

 

 ・2020年9~10月

 学校が再開した。ただ正直夏休み中にやってた受験生全員対象の補修に行くよりはまだ通常授業に行く方が楽だったので大して憂鬱には思っていなかったはず。この時期は夏前や夏に受けた模試が返ってきてたり体育祭があったりしていた。もしは別段問題ない出来だったし勉強もそれなりに進めていたので多分この頃も勉強に関する不安とかはあんまりなかったかな。漠然とした不安はあっても具体的な不安というか心身が不安定になるレベルのものはなかった。そういうのは1月以降。この頃は勉強は一応応用系をやっていたはず。ただまあ相変わらず東京阪数学のテストはきつかった思い出。あれのせいで良くも悪くも二次試験の数学の形式やできなかった時の絶望感になれたところはある。そう考えるとかなり良かったのかもしれない。難易度の高い問題を二時間半の中で取捨選択しつつできる限り解く訓練を毎週してたわけだしね。

 

 この頃から割と完全に受験生の意識ではあったので学校行ってすぐ塾行って塾が閉まったら帰って……ってのを繰り返していた。なので心が楽しめる要素がなくすり減っていく危機感を感じていたので娯楽を取り入れてた。この頃の娯楽は西美濃八十八人衆っていう実況者の実況動画見ることだった。かなり面白いのでお勧め。

 ・2020年11~12月

 高校の遠足でユニバに行った

 

 ということがわかる写真以外ほとんど中身のある写真がなかった。受験生の生活ってマジでつまんないですねこれ。この頃に秋オープンがあったはずなのにそれがわかる写真すらもない。なぜだ。ちなみに秋オープンの出来はそこそこって感じでした。秋オープンになるとさすがに現役生でもある程度はできることが求められてくるのでそれはちょっとしんどかったかな。

 

 この頃は基本過去問メインでやっていたはず。もともと夏ぐらいから過去問を間に挟んでたけどここら辺はかなり過去問に偏ってた。25ヶ年とか27ヶ年とかそればっかやってたな。ちなみに生物にそのたぐいのものはない。まあ生物は割と現代でいろいろ発見されたり前までの常識が否定されるような事実が出てきたりしているから仕方ないといえば仕方ないんだろうけど。ただまあ過去問はやっぱり難易度が高いのもあってずっとやるのはかなりしんどかった。なので合間合間で新演習をずっとやってた。この頃で確か3周目終わろうとしていた気がする。やりすぎだろ。

 

 あとは「共通テストの勉強いつからやる?」みたいな話をよくしていた。みんな11月の頃は「12月からかな~」って言ってたのに12月には「クリスマスからかな~」になってたしクリスマスには「年明けからかな~」になってた。まあ仕方ない。共通テストの勉強クソつまらないし。ああいう点を取ることよりも落とさないことが重要なテストは基本的に好きじゃない。

 

 ちなみにこの頃もメンタルは別段やられてなかった。たまにどうしようもなく不安になることはあったけどたまにだったし30分後には一ミリも覚えていないような感情だったので大したことはなかったはず。

 

 

 というわけでとりあえず1月からの直前期までのことをまとめました。正直な話、圧倒的に直前期がしんどかったのでここら辺の時期は大したことなかったイメージが大きい。特にメンタル面はマジで天と地ほどの差があった。このころもいうて平日休日ともに塾にこもりっぱなしだったけど直前期に比べればそれの対してのしんどさも全然なかった。ほとんど気持ち的には高校に通ってた時と大差なかったまである。

 

 1日でまとめられなかったので明日は続きの直前期編になります。受験期の振り返りで9ヶ月と2か月に分けるって配分的にどうなんだと思うかもしれないけれどマジで直前期はいろいろやばかったので全然問題ない。明日更新される直前期編をぜひお楽しみに。あの頃の僕の心の中の地獄がわかります。

ワナビーの原罪-2023/2/24の文章

 こんにちは。もう朝ですね。5時半に後輩に応援メッセージを送ったら即レスされました。受験生って朝起きるの早いんですね。僕の時は朝7時くらいに起きた気がする。現地宿泊だったからだけど。

 受験関連の日記は明日明後日に書きます。内容は勉強法とかそういうのじゃなくて当時の心境とか心持ちとか何考えてたとかそこらへんを思い出しながら書きたいと思ってる。受験ネタの最終到達地点の一つでもある。乞うご期待。
 
 本題に戻りますか。ワナビーの意味を一応言っておくと、何かに憧れたりそれになろうとしてる人を指した言葉で英語のwanna beからつけられたやつ。意味的には割と馬鹿にしてるというか理想と実力の剥離が大きい人のことを嘲笑する意味が強いはず、確か。

 世の中にはそういうワナビーがかなりの数いる。もちろん自分自身も何かの分野においてはワナビーと称される人間なのかもしれない。創作系だと特にね。まあただ別にそういったワナビーは存在することが罪というわけでは全くないと思う。誰だって憧れや理想を持つことはあるし実力が最初からついているわけでもないから。
 
 じゃあ何が問題なのかというと、近年のワナビーは乗っかりでコンテンツを潰すことがあまりにも多い。最初に現れた上位者の生み出したコンテンツを、ワナビーが下手な装飾を繰り返してつまんなくさせている。The Backroomsが特にその例に当たると私は思う。あれはそもそも最初はただの画像とそのキャプションから始まったミームでで延々と続く同じ空間、自分以外に人間がいない孤独感、危険存在がいるかもしれないという恐怖とかが合わさって頭がおかしくなりそうになる、というパニックホラーの要素をちゃんと抑えている。その上で作者や役者の余計な主張が少なく、言語や文化の違う国のものであっても共通するような恐ろしさがあった。誰にだって想像できる嫌さがあった。

 しかし今ではどうだろう。ワナビー共がそのコンテンツに感動した。そこまではいい。しかしその後ワナビーはそのコンテンツに乗っかろう、他人の功績を利用して自分自身が評価されようとした結果、The Backroomsは大量の設定をつけたされオリジナリティとワナビーのクソ装飾が混ざり合ったよく分からないコンテンツの一部となった。人間が大量に存在していて基地があったり敵対勢力への対抗手段があったりエンティティごとの内容もB級ホラーに溢れてそうなものばっかりになって……。最初期の意味のわからなさが失われてしまった。The Backroomsはファンムービーで日本で有名になった側面が大きく、そのファンムービーも前述のような設定の元となった初期設定を元としたものだったけど、それでもまだそこには不明点が多く存在してた。存在することができていた。想像の余地が、未知に恐怖する余白が存在していた。今ではもうそれらはない。

 ワナビーは罪ではない。憧れも模倣も自由ではある。しかしそれらがコンテンツを壊してしまうことは多い。その多くは憧れに対する同化欲求によるものだろう。ワナビーはその成り立ちと性質からして憧れの対象を壊すことが決定づけられている。憧れは禁断の果実なのかもしれない。

蓋然性合理主義の概念を逃れて-2023/2/23の文章

 最近本当に生活リズムがヤバくなってきていて6〜7時とかじゃないと寝れなくなってきている。普通に翌朝からバイトあるのに。なぜ?今日はこの日記書き終えたら流石に寝ますかね……。

 最近結構お金の消費量が多い。1月10〜20万ペースで使ってた。アプリの課金ってマジで恐ろしいからみんなはやめとこうね。僕はもうFGOでエリセの星5が来ない限りはそこまで課金する予定はない。でもガチャの課金って射倖心めちゃくちゃ煽られるせいでしたくなっちゃうんだよな。あれピックアップの最高レアが当たる確率0.8%って普通にめちゃくちゃ確率低いんだからまともに課金する方が良く無いんだけどね、本当に。

 あとちいかわとかのグッズやジョーマローンの香水やamazonでの買い物や無印やニトリでの買い物とかをしていたら気がついたら大量のお金が請求されることになっている。クレカって後払いなのが怖いね。めちゃくちゃ便利ではあるんだけど。ただまあゲームの課金以外でお金使ったことに後悔したことはあんまりないのでそこはいいことなのかな、とは思って生きている。

 あ、でも元カノに会いに2回くらい九州行ったのあれ今考えたらめちゃくちゃ無駄だったな。会いに行ってたころは浮気始まってなかったとはいえ結果から見たらマジで無駄でしかない。交通費で6万くらいかかってるの普通に笑えない。別にだからどうこうして欲しいというわけでは無いけど。

 元カノといえば別に今はネタにする以外の意思は特に無いので別段強い恨みや憎しみはないんだけど、それはそれとしてやっぱりどこかで偶然出会ったりしたら死ぬほど嫌な気分になるだろうからそれを防ぐために半径100m以内にお互い近づけないよう神に設定してもらうか、それかシンプルに向こうに死んで欲しい。

 たとえ僅かでも出会う可能性があるという事実が普通に嫌だ。死んで欲しいほど恨んでは無いけど会いたくは無いから死んで欲しいって思うの、側から見たら全く区別つかないからわざわざ説明する意味はあるのかな。自分がしたいからしているんだけど。向こうが割と帰省したがるタイプだったはずだから余計嫌なんだよなあ……。帰省のタイミング俺に合わせてずらしてくれないかな。まあ一切の連絡手段を絶っているのてもはやなにもわからないけれど。あ、でもその一環で元カノの存在を感じる写真を全部消したせいで九州で撮った写真がほぼほぼ消えちゃったのだけはミスったなあって思ってる。向こうで食べたご飯とか九大とか太宰府の写真まで消す必要はなかったなあ……。今の所でかい後悔はそこ。

 可能性の低いものを求めて可能性の低いものを避けて……なんだか合理的では無いことばっかしてるし考えてるなあ自分って感じ。蓋然性合理主義はあまり人間に適していないのかもしれない。