人間は移動する足である-2023/2/28の文章
どれだけ化学が発展しても、社会が便利になってきても人間が生きていく上で昔からほとんど変わっていない動作がある。
それは歩き・走りなどの移動の動作だ。
現代社会は過去の先史時代や石器時代と比べてはるかに発展している。その頃を生きる生き物には一切想像もできなかったような世界が今現実に広がっている。
しかしそんな世界で人は昔と変わらず歩いている。そこに別段の進化が見られることもなく。動作が時間の経過により失われた技術と化すこともなく。
ただ大きく異なることといえば交通機関や移動手段の増加だろうか。
バスや電車、新幹線に飛行機等の公共交通機関の発達、自転車や車等の足の拡張器官ともいえる移動手段の登場である。
こうしたものが存在している以上、人の移動に関するカテゴリーは変化しているのじゃないか?という意見が出てくると思う。確かにそう思えるかもしれない。
これに関しては、半分正しくて半分違うと言える。少なくとも僕は。
確かにそういった手段の変化は見かけ上も実態上も歩くという動作からは大きく変化しているように見える。しかし本質は変わっていない。歩くという動作を他のものにエネルギーを介して押し付けているに過ぎない。人が移動の際に行なっている主な動作の意味は、大筋では何も変わっていない。結局のところ移動の本質は変わらない。人はエネルギーを用いて自分という物体を動かす仕事をしているに他ならない。
移動することは生活と切っても切り離せない。
それは家の中の移動や通勤・通学といった小規模なものから国内・海外への旅行といった大規模なものまで存在している。
移動無しで生きていくことはできない。
移動無しで生きている人というのは結局のところ他人に依存して生きている。他人を自らの足としているのである。
もちろん人間以外の生命も移動無しで生きていくことはなかなか難しい。いや、生きていくことはできたとしても種の繁栄を考えるとやはりなんらかの移動がそこに伴う。
生命の本質は移動にあるのかもしれない。人間も、動物も、生まれた後ある程度成長すると誰に教えられたでもないのに移動法を覚え、自発的に習得し移動できるようになる。移動行為そのものがまるで生命にプログラミングされているかのように。
人間には移動するための足がついている。
いや、移動こそが本質なのだとすると人間の本質も足にあると言えるだろう。
人間は移動する足なのである。
以上のことをバイト中に暇だったので考えていました。