寝る前マガジン

1日の寝る前か暇な時に書いている文章を公開しています。1日1記事。

結果が先か行動が先か-2023/2/11の文章

 

 こんにちは。今までで1番早い時間に書き始めているのではないでしょうか。健康的で良いですね。ただ1日が終わる前に日記を書くというのもどうなのかと思わなくもないけれど。

 

 今日は1日バイトでした。しんどいですねえ……。時給1000ちょいなんだからもっと仕事を楽にしてほしい。まあでも飲食に比べると楽ではあるんだよな、確実に。飲食の時給ってもっと高くあるべきじゃないか?忙しそうすぎるだろ。

 

 朝ごはんや昼ごはん用としてローソンの増量キャンペーンのものを買おうとしてローソンに行ったら全部売り切れていた。おいおい。こっちは生活かかってるんだよ。ツナマヨか焼きそばパンを寄越せ。ツナマヨおにぎり、チャーシューマヨおにぎりとサイズ感似てるのに重量違いすぎておもろい。

 

 あることを考えているときに自分が結果主義なのではないかと思ったのでちょっと考えてみた。個人的には結果主義というよりも結果から全てが判断されるという考えが近しい気がする。結論主義?そんな言葉があるのかどうかも意味があってるのかどうかも分からないけれど。

 

 でもかと言ってこの考えは特異的なものでは無いと思っている。災害で生き残った人の行動が後から「生死を分けた行動なのでは?」と議論されたり成功者の行動が成功のための秘訣かのように語られたり犯罪者の過去の行動が犯罪と紐づけられたり……人が得た「結果」によってそれ以前の行動に意味が付与されるといった例は世間一般でも多く見られる。結果によって人間に意味づけがされているのでは?とも言えるのかもしれない。もしかめ。

 

 もちろん結果も行動もある特定の事柄に対して一意に決められるものではないので簡単に判断はできない。ある行動は別の行動の結果かもしれないしある結果はその後の「結果」を達成するための行動だったかもしれないので……。

 

 自分が少し極端な考え方なのかなと思えるのは行動に対する自分の評価、というか感情についての考え方だ。結論から言うと、行動に対して基本的に何も思わないし特にこれといった感情も抱かない(例外はある)(アンリミテッドルールブック)(僕はキメ顔でそう言った)。

 

 例えば「○○大学を受験した」と言われたとき、その結果無しでは「はあ……」としかなれない。受かったのなら良かったなあとは思うし勉強期間や努力について聞くだろうし、もし落ちたのなら憐憫の感情は最低限持つし慰めの言葉も1つや2つは言うと思う。でもその行動自体は別段言及するものではないと思う。

 

 「(彼氏or彼女)が異性と2人でご飯や飲みに行った」という愚痴を友達から聞かされてもその結果何もなければ「まあ感情として嫌だろうなあ」とは同情するしもし何かあったのであればその先の関係や取るべき行動について考えると思う。でもその行動自体はどうでも良い、というと少し違うけれど大きな意味がないように感じてしまう。結果からその行動がもつ意味が決まるのであって結果が無ければ意味も無い。と、個人的には思う。

 

 この考え方が人間関係において良いか悪いかでいうと普通に悪いと思うし、急な関係断絶にも繋がるので直した方が良いものではある。でも感覚のものなので仕方ないと思う。許してくれ社会。

 

 鶏が先か卵が先かという議論は因果と結果どちらが先に立つかという議論だけれど、行動と結果は行動が先に立ち結果が後に立つ。しかしそれらの持つ意味は後の結果により決まる。論理として気持ち悪いようにも感じるけれど、でもそうなんじゃないだろうか。どうなんだろう。

 

 そういう観点から考えた時、果たしてこの日記がこの先意味を持つことはあるのか。この先の人生、乞うご期待。