寝る前マガジン

1日の寝る前か暇な時に書いている文章を公開しています。1日1記事。

継続は力足り得るか-2023/2/22の文章

 今回でこの日記も20回目の更新になるそうです。一応20日連続で日記を書いているわけですね。日付が変わる前に書いたり後に書いたりがバラバラなせいで何だか連続感はないですが。20日もやってると習慣づいてくるので最近は寝る前の一仕事みたいな感じで書いてる。まあ頭が元気な時間帯の方が本来はいいんだろうけど。

 現代社会において「継続は力なり」っていう言葉は当たり前のように使われている。「何事も続けることで成果が得られるものであるということ」という意味らしい。なんというかとても社会然とした感じの意味だ。ふざけるな。綺麗事がよ。

 もちろん継続することの力はすごい。勉強も積み重ねていけばその知識量や学力は伸びていくだろうし運動も日々の適切なトレーニングをしていればそれなりに身体能力の向上も起きるだろう。これらを継続することのメリットと言うのに反対する人はおそらくほとんどいない。ただこれらの正の側面の持ち得る「良さ」が良い方向にだけ働く訳ではない。これらの「良さ」は継続することに何かの正の効果を生み出すことを強制してしまっている。

 そもそも継続はどこまで効果があるだろうか。前述の勉強や運動にしても際限なく伸びるということはありえない。もしそうなのだったら今頃入試において過去問の存在価値は無くなっているだろうしスポーツの世界記録は日々ハイペースで更新され続けることになるだろう。そう、継続の効果には打ち止めが存在する。それにもかかわらず継続することが良い結果を生み続けると考えられている。

 具体例を出そう。簡単な例としては受験勉強がある。まあ受験に限らなくてもいいのだけれど。ただ年数の決まりがある程度あることとその期間それに一極集中しやすいという傾向を鑑みると取扱やすい。継続にもし無限の力があるのならば、本来浪人生が落ちることはあり得ない。勉強しているのならば。しかし実際はそうではない。現役時代と同じどころかそれ以下の実力になることも珍しくない。

 もちろんこれらの原因に精神的な側面や効率的な側面が存在することは周知の事実である。しかし「継続」がそれを考慮してくれる訳ではない。「継続」の観点だけで見るならば、継続したにもかかわらず力を得ていないのである。言ってしまえば外れ値、不適切な値、バグデータのような扱いとされるのがそれらである。継続が力たり得ないのである。

 なんだかひたすら屁理屈を言ってる感じがしてきたな。ちょっと別の方向に行こう。

 そもそも、継続に良い側面だけがあるというのが間違いなのではないか。継続は慣れを生む。慣れは慢心を生み、慢心は油断を生み、油断は失敗を生むだろう。ただただ続けるだけでは向上することができないのである。

 どんなものにも「正しい」形が定められている。「継続は力なり」には「適切な努力の」が頭に付いたものがおそらく正しい。ただしそれは日本語というハイコンテクストなクソ言語においては省略される。省略された結果誤解を生み継続の被害者を生んでいるのではないだろうか。浪人生とか。別に浪人を否定する訳ではないけど。それを手段として当然のものとする社会が気持ち悪い。10代の1年の価値はクソでかいだろ、本来。

 もはやなにをdisっているのかわからない。20回継続してる日記になのにこんな内容になってしまうこと、それ自体がまた継続の悪い側面ではないだろうか?言い訳と言われたらそれまでだけど。