寝る前マガジン

1日の寝る前か暇な時に書いている文章を公開しています。1日1記事。

コンテクスト-2023/2/17の文章

 

 こんにちは。今回は昨日とは異なり日記に書く題材が明確に決まっているのでそれらについて書きます。よろしくお願いします。

 

 

読書

 読書を最近ちゃんとできてないなと思った。昔は割と本を読んでる方だったと思う。特に中学の頃はかなりの本を読んでいた。昼休みだけは外にサッカーをしに行っていたけど、それ以外の休み時間や雨の日の自由時間、授業中の自習の時間や果ては普通に授業している間も隠れてこっそりと本を読んでいた。読んでいたジャンルは小説が大半だったと思う。本はいつも、もとから名前を知っているもの以外はタイトルとあらすじ、そして最後のページに書かれている本文を見て、何となくの空気感を知ってからそれが気に入るものだけを選んで読んでいた。恩田陸米澤穂信宮部みゆき星新一初野晴、他にもいろいろと。小説のジャンルはあまり問わなかった方だと思う。外国人作家の本はアガサ・クリスティ以外はそんなに読んでいなかったかも。キャッチャー・イン・ザ・ライくらいは読んでおくべきだったかな。クリスティだと「秘密機関」が割りと王道ラブコメの要素を含んだもので結構な意外性があったのをよく覚えている。「骸骨ビルの庭」という本、読後感がよかったのは覚えているのに内容をほぼ覚えていないのでいつか読み返したいな。

 

 自分は本に影響されやすい方だったと思う。いつも小説を読んで自分の読み方が頭の中に割と明確の情景を作りながら読むタイプだったので、主観となる主人公視点はとても脳を占める割合が大きく明確な情景を作りながら読むタイプだったので、主観となる主人公視点はとても脳を占める割合が大きく、どうしても影響されてしまっていたのかもしれない。そう思うと、読書が思考に与える影響は大きい。

 

 それがフィクションであれノンフィクションであれ、人は何かを作り出すときに絶対に自分の思考を意識的にか無意識的にかのどちらかによってそれを通過して生み出す。逆説的に言うと、作り出すものは必ず思考から作り出せうるものに限られるのである。そうしてできた作品にはその多寡にかかわらず必ず作者の思考が乗っかっている。そして私たち受けとり手は作品を通じて作者の思考に触れることができる。人の持つ思考はその人が人生の中で触れてきた物事やそのタイミング他の物事との関係性や環境によって形作られるもので、全く同じものは基本的に作りえないといってもよい。そんなこの世でオンリーワンのものに読書では簡単にアクセスできる。

 

 人の思考は財産だ、と私は思う。誰しもが自分自身のそれを持っているもので、しかし基本的にはそれしか持てない。しかし他人の思考を知ることは自分の思考を広げることができる。自分自身では持ち得なかった観点、疑問、思考の仕方や紐づけ方を知ることで、自分の思考でそれらを参考にすることができる。読書が真に豊かにするのは教養なんてちゃちなものではない。思考なのである。そんな重要なことを、最近十分にできていない。時間がないのもあるし、本にかける体力や金銭が十分にないのもある。でも、このままではいけない。自分の文化的な側面を失わないために、あらゆる発展をあきらめないようにするために、自分の思考というサグラダ・ファミリアを作り続けることを取りやめてしまっては、私は私でなくなってしまうように感じるのである。

 

匿名M

 別の話をしよう。今日、「匿名M」という曲が発表された。ピノキオピーさんの新曲であり、ARuFaさんがインタビュアー役として出ている。読書の話に続けてこれについての感想や考えも書いていきたいと思う。

 

 まず感想を書く前に、インターネットの匿名性について書こう。インターネットは、それまでの社会には存在しえなかった全世界中が繋がっている匿名世界である。もちろん、完全な匿名ではないし、個人情報は本人に紐づけされている。しかし、インターネットはこの世で唯一全世界に自分が匿名のままで意見を放つことができる。交流することができる。匿名のままで、社会活動をすることができる。人と人が交わってできるのが社会なのに、それが匿名のままでできてしまう。これはインターネット上でしか起こりえない現象だろう。そのことを踏まえたうえで、なぜ匿名Mは匿名Mなのだろうかということを考えたい。

 

 インタビュアーと被質問者という構成上、後者を匿名希望として扱うフォーマットはよく見られるものである。それこそ、インターネットじゃない雑誌やテレビ等でも。しかし、ここで取材されているのは初音ミクなのである。初音ミクはキャラクターである。そして同時にボーカロイド、つまりは音声ソフトウェアに付けられたただの名前でもある。初音ミクには匿名にすべきキャラクター性は本来存在しえない。公式がそんなものを作り出してはいない。みんながイメージしている初音ミク像は、何らかの曲やライブ、小説等の創作から作り出されたものであり、それは初音ミク自身が生みだしたものでも作り上げたものでもない。周りが作り上げた張り付けた張りぼてに過ぎない。虚飾に過ぎない。初音ミクには匿名性がない。初音ミクはパーソナリティを持たない。

 

 この曲は、これが収録される予定のフルアルバムのタイトルにもあるように非常にメタ的な曲である。曲中で匿名Mは自らのことを音楽ソフトと名乗り、人によってその発言を左右されるものである、つまりは道具でしかないことを自ら言っている。当然使用者側についてのコメントも多くある。こういう、第四の壁を越えてくるようなメタ的な作品というものは世の中に多い。見ている側を、享受しているだけの人間を一関係者の枠に落とし込んでしまう。メタ的な考えは、コメディやホラーに多くみられる。コメディーはメタを笑いのネタとして扱う。ホラーはメタを恐怖のネタとして使う。ではこの曲のメタは何に使われているのだろうか。私が思うに、この曲におけるメタは、メタというネタのために使われているのだと思う。メタネタを成立させるためのメタ。自分自身が自分自身の存在理由になっている稀有な例だと思う。

 

 この曲を何回か聞いていて気持ちが悪かったところがある。それはインタビュアーと匿名Mの関係である。この曲においてインタビュアーは人間側の存在である。にもかかわらずインタビュアーはほとんど人間らしい活動をしていない、人間らしい感情を表に出していない。一種のテンプレートをなぞったような質疑応答を無感情的に行っている。対する匿名Mは自らのことを人間ではないと名乗り、それを強調しながらも、「毛量が多くて大変」「歌姫と呼ばれるのはプレッシャー」という答えをしたり人間側に対しての感謝や気配り、ひいては皮肉や反論をしたりしている。非常に人間的な情緒に基づいた行動をしているのである。非人間的な感情のない人間と、人間的な感情豊かな音楽ソフト、という対立構造が見られる。いや、”作られて”いる。意図的に匿名Mに対して同情や関心が向けられる構成になっている。それがひどく気持ち悪かった。私たちは「人間」に対して仲間意識を持っているのではなく、「人間的な要素」に仲間意識を一方的に抱いているに過ぎないということを、突きつけられたような気がしたからである。初音ミクが匿名Mとして成り立つのも、匿名Mが「人間的」であるがためにその匿名性に意味があるように感じられるからこそであろう。

 

 私たちは匿名Mから何を学ぶべきなのだろうか。ボカロ業界の衰退、初音ミクに代わる数多のソフトの台頭、「初音ミク」のキャラクター。おそらく題材にできるものはいくらでもあるだろう。これらはボカロの15年以上の歴史の中で積み重ねられてきたものから生まれている。その積み重ねは、到底すぐに咀嚼しえるものではない。私たちは今一度ボカロ文化に向き合う必要があるのかもしれない。

 

 というのが匿名Mの感想の結論でよく存在しそうである。だが本当にそれだけなのだろうか?匿名という言葉はインターネットにおいて非常に意味が大きい。それをわざわざ用いたのは、果たしてボカロ文化について考えさせるためだけなのだろうか?そう結論付けるのは、あまりに早計な気がしてならない。

 

 ただの感想です。特定しないでね。