寝る前マガジン

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夜道がら気味想ふ-2023/3/3の文章


今日寝る前にどうしても必要なものがあって志摩スペイン村ホテルから徒歩10分の位置にあるファミマまでわざわざ夜中に買い出しに行った。

志摩スペイン村の周辺はクソ田舎なのでろくに街灯も無く、なんと道中のほとんどがほぼ完全な暗闇に包まれていた。

そこにあるのは薄暗さへの恐怖や白色灯の街灯に照らされた空間への恐怖といったようないわゆる「夜道」で想定されるような恐怖では無く、根源的な闇への恐怖とろくに歩道がないことからくる車への恐怖だった。

一般に「夜道を歩くのは危ない」という言葉が使われる時、その文脈としては夜は不審者や変質者、他人に危害を加えうる人間が昼間よりも多いことや、暗いために周りから自分の状態が気づかれにくいために何かあっても助けてもらいにくいことなどを背景に持った言葉として使われる。

つまり一般的な夜道への恐怖はその前提として人が存在していることや他人を認識できることがあり、それができない状態だとは考えられてない。

でも真の夜道、視界のほとんどがほぼ完全な闇となるような道に関してはそれらの前提は存在しない。
できないと言っても良い。

ほとんど先が見えず、スマホのライトで道を照らしながら行っているような状況では他人の存在はなかなか恐怖になりえない。むしろ他の人間の存在が安心を生むとまで言っていいかもしれない。
もちろん明確な害意を持ってる人の場合は別だけれど、それは正直時間帯や場所を問わず普通に出会ったらダメなタイプな人なのでパターン的な当てはめはできない。

そこにある恐怖は人間の根源的な恐怖と言っても良い。気味が悪いとかそういうジャンルじゃない。暗闇を歩く君が悪いと言わんばかりの無限に続くように思える暗闇は何故人が、動物が闇を自然と忌避するかを思い出させるような恐怖を与えてくる。

普段私たちが過ごしている夜というものは自然界のそれとは大きく違う。私たちは暗順応しなくても十分に視界が確保されるだけの明るさ、道々を行く人々の存在が確保されている私たちのそれに慣れきってしまっている。
生来自然に生きる動物として受け継がれてきた暗闇への恐怖心は大きく薄れてしまっている。

でも暗闇は、今やなかなか街中で見かけることの少なくなってしまったそれは、今でも私たちの遺伝子に「恐怖」の気味を与える存在として刻まれている。

人間の愚かな行動を揶揄する時に「しょせん人間も動物だから」という言葉が使われることは多い。それの多くは性欲や争いに関する物事へ使われる皮肉だけれど、こういった生存本能的恐怖もまたその例として用いることができる。

暗闇は、生来由来の正体不明の恐怖だ。